幸せに生きるということ

2016/01/02

#コラム

死生観、生き方に関するお話しです。

この二年間、僕は人間についての様々なことを思い悩んでました。
何か一つのことが原因というわけではないのだけど、それなりに歳もとったし、親しい間柄の人も亡くなったりして、どう生きるべきかとか、生と死について延々と考える苦しい日々でした。その中で、今まで真剣に考えてこなかったある事に気付きました。自分もみんなも、生あるものは全て死ぬのだと。

漠然と、それは当たり前の事だと僕らは思っています。事実を直視するのを無意識のうちに避けているのかもしれません。だけど、誕生した生命は、その誕生の瞬間から確実に死へ向かっているのです。
今、この地球上に生きている70億あまりの人たちも、120年か130年も経てば、誰一人として生きてはいないでしょう。生まれたばかりの子も含めて、無数に存在する命が、皆儚く消えるのです。死はたまにしか起こらない不運な出来事などではなく、日常の中に無数に存在するありふれた出来事なのです。

ビッグバン理論によれば宇宙は誕生より約138億年、地球は誕生より約46億年経過しているとされています。人間の寿命を約80年と仮定すると、ひとりの人が生きている時間は地球の歴史の5750万分の1程度です。それは80歳の人にとっての、43.9秒相当の時間でしかありません。たったの、それだけです。
地球から見れば一人ひとりの人間は、ほんの束の間、現れては消える幻のようなものでしょう。

そんな幻のような存在の自分が、自分という枠組みの中に固執してどれほどの意味があるでしょうか。「誰だって自分がいちばん大事だ」などと言ってはばからず、常に自分を再優先に考える人生のいかに虚しいことでしょうか。どれだけ自分を大事にしても、どんなに多くのものを得たとしても、間もなく自分自身と全てを失うというのに。

でも。だからこそ、思うのです。自分という不変のものが確かに存在するという、根拠の無い妄想から抜けだして、幸せに生きるということを真剣に、自分の頭で考えようと。
ほんの束の間でも、僕らはいま生きている。だけど、僕らそれぞれが自己満足の世界で完結してしまうならば、果たして本当に生きているなどと言えるでしょうか。他者の幸せを考えず、他者の為に行動せずに一生を終えて、僕らは「幸せな人生だった」などと思えるでしょうか。

他者を思いやりなさいと、善人ぶるつもりはありません。
そうではなく、他者に対する愛を持たない限り、幸せな人生はきっと、あり得ないのです。自分自身のためにこそ、他者と世界を愛し、大切にする必要があるのです。
もしもいま自分が辛いのならば、他者と自分の全てを許し、全てを肯定しようではありませんか。それは諦めでも、現実逃避の理想論でもないのです。現実をあるがままに受け入れることで、揺るぎない心の平穏と活力を得て、幸せに生きることに他ならないのですから。

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