ガダラの豚/中島らも を読んで

2016/01/03

#コラム

アフリカの呪術を題材にした小説、ガダラの豚の書評です。
物語の核心に関わる部分ではないものの多少のネタバレを含みますので、読む予定のある方はご注意を。

まずは、あらすじ。
主人公は民俗学者の大生部教授。彼は8年前、呪術医の研究のために家族と共にアフリカの地を踏んだ。しかし間もなく、娘の志織を不運な事故で亡くす。そのことから大生部はアル中になり、妻は精神を病んでしまう。
大生部はその後もアフリカに長期滞在し帰国。滞在経験と研究成果を本に書き、図らずも世間の超能力ブームに乗ってTVに多数出演する有名人になる。妻の精神状態は回復せず、友人に誘われて、奇跡を起こすという新興宗教の信者になるが…

その後、物語の中ほどで再度アフリカに滞在することになるのだけれど、このアフリカの描写が素晴らしくて、まるで自分もアフリカにいるような気分にさせてくれるのだ。大自然と呪術、超常現象。そして実際に一昔前あった超能力ブームや新興宗教問題が、様々な示唆を含みながら実に見事にエンターテインメントとして開花している。題材としてはシリアスなものも多いが、決して暗くはない。
また、いわゆるギョーカイ関係者でもある作者が描くTV業界の内情も面白い。

中島らもさんはエッセイを多く書いており、作品にはお酒やアル中ネタが多いんだけども、ガダラの豚でも大生部教授がアル中で、その手の描写はらもさんご自身がモデルだそうだ。

惜しいのは三巻で、二巻までは文句なく面白く、緻密に無駄がなく作られているのだけど、三巻に入ると途端に大味になってしまっている。それでもやはり印象に残る作品で、読みやすく、読後感も良い。

とても印象に残った一節がある。
二度目のアフリカで、妻の逸美が過去の経験を振り返るところ。
以下、引用。

「ずいぶんと、考えたんだ。君をアフリカに連れてくるのはどうかってな。納にはもちろん、アフリカを見せてやりたい。しかし、君は、せっかく忘れてた志織のことを思い出すだろう。アフリカに来ればね」
逸美は、水割りのグラスをカラカラと揺すりながら笑った。
「あの娘のことを忘れたことはないわ。一生忘れられるわけがないでしょ。あの娘は、このケニアのどこかに眠っているのよ。だから、お墓参りよ、今回は」
「あんたは、変わったな」
大生部は、目をしばしばさせて妻を眺めた。
「そうね」
逸美は恥ずかしそうに目を伏せた。
「何かのために生きるってことを止めたのよ、私。昔は、志織を亡くした悲しみのためだけに生きてたわ。でも、それ、ハニワのすることなのね」
「ハニワ?」
「生きた人間のすることじゃないのよ、悲しみ続けるのは。変な宗教に入っちゃったから、余計にわかったわ」
「そうかね」
「人間は、いつだって悲惨よ。それが人間の常態なのよ。でも、それでも前へ進んでいくでしょ人間は。宗教は……よくわからないけど、人間に薄い膜をかけるわ」
「膜?」
「よく見えなくなるのよ、現実が。現世が地獄だって言ったり天国だって言ったり。うんざりだわ。現世は現世よ。私は、マユを破ってまたこの世に戻ってきたような気がする。死んだ志織のぶんまで、悪いけど生きてやるんだから心配しないで」
 
― 中島らも「ガダラの豚」文庫版 2巻 P55より引用
※ 1993年に単行本、1996年に3冊の文庫版が出版されている。

そう、人間はいつだって悲惨なのだ。
新興宗教や占いにハマる人。目の前の毎日に追われている人。未来の大きな夢へ一直線に生きる人。流行に流され続ける人。みんな悲惨な現実から目を背けて生きているんだろう。
僕らは自分のまわりで日々起こっている事を、偏見と常識のフィルターを捨てて、ありのままに見て、感じて、考えなければならないのではないだろうか。

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